錦織圭選手が、今年も活躍を続け、男子テニスランキングで、
日本人初の4位になることが、確実となっている。
昨年の全米準優勝始め、快進撃を続ける中、
様々な過去の日本人名プレーヤーが、再び脚光を浴びたが、
なかでも、最も多く報道されたのが、佐藤次郎だろう。
4大大会で、5度シングルスベスト4に進出し、
今日でも、イギリスのテニスの神様として称えられている、
「フレッド・ペリー」にも勝利した、日本が世界に誇る名選手である。
4大大会シングルス、32勝の記録は、
長く日本テニス史上最高記録だったが、
2014年、錦織圭選手がその記録を塗り替え、
更に、記録を伸ばし続けている。
歴史は、必ず動いていくものなのだ。
戦前、世界の舞台で活躍した日本人テニスプレーヤーの多くが、
戦後も生き続けたのに対し、佐藤の死は、悲劇的なものだった。
テニス雑誌の記者と婚約発表し、デビスカップの日本チーム主将として、
ヨーロッパ遠征に参加した帰り道、遺書を残し、
マラッカ海峡に身を投げたのだ。
エースとして、無理を押して試合に強行出場し、
日本庭球教会の、主導権争いに巻き込まれるなど。
心身ともに疲れ果てての行動だった。
佐藤の自殺は、後の、1964年東京五輪・銅メダリストで、
マラソンランナーの、円谷幸吉に繋がるものがある。
周囲の強烈なプレッシャーのもと、
日本のエースとして、国を背負って立つ者としての意識が、
あまりにも強過ぎたための、悲劇という点だ。
2020年に東京五輪を控えている日本だが、
再び、こういった悲劇を繰り返さないためにも、
代表選手のメンタルケアを、重視してもらいたい。
投稿者: admin
日本人女子初の4大大会制覇を遂げた、沢松和子!
かつて日本において、テニスやゴルフは、
裕福な人たちが行うスポーツの、イメージが先行していたが、
テニスの普及と大衆化において、大きな影響を与えたのが、
沢松和子である。
1975年のウィンブルドンにおいて、沢松は、
日系人の、アン清村とペアを組み、女子ダブルス部門で優勝し、
日本人女子選手として、史上初の、4大大会タイトルを獲得した。
後に、姪にあたる沢松奈生子も、プロテニスプレーヤーとして活躍した。
ダブルスでの優勝ばかりが、話題として先行しがちな沢松だが、
シングルスでも、好成績を残している。
全豪ではベスト4、全仏・全米ではベスト8の、最高成績を残している。
唯一、3回戦どまりだった全英で、
史上初の日本人優勝を成し遂げているのは、面白いポイントと言える。
この時期は、衛星中継が始まって間もない頃で、
海外の大会が、録画中継ではあるが、観られるようになった。
決勝戦の模様が、テレビ放送されたことがきっかけで、
テニスブームが、本格的に日本で開花していくこととなる。
加えて、男子テニスでは、ビヨン・ボルグやジョン・マッケンロー、
女子テニス界では、クリス・エバート、マルチナ・ナブラチロワといった、
個性的なスターが、この時期たくさん出たことも、
テニスブームに火を付けたと言える。
沢松は、この年限りで引退したが、
彼女の功績は、たくさんの関係者に刺激を与え、
テニストーナメントや、テニススクールの増加、
ファン層の拡大などに、繋がっていった。
この偉業があったからこそ、後の、
伊達公子や、錦織圭の登場があったのだろう。
一人の選手が切り開いた道が、
後の選手の育成にも、大きな影響を与えるところに、
スポーツの奥深さを、感じずにはいられないのである。
日本人初のメダリスト、熊谷一弥!
テニス競技に、軟式と硬式があるのは知られたことだが、
明治時代に日本にもたらされたテニスが、国内で先に普及が進んだのは、
用具が比較的手に入れやすかった、軟式競技だった。
硬式転向の機運が高まったのは、大正時代に入ってからで、
理由は、国際交流を目指してのことだった。
1913年、当時、慶應大学テニス部員だった、熊谷一弥は、
日本で初めて硬式テニスに挑戦した、先駆け的存在で、
大学卒業とともに、アメリカに拠点を移した。
純粋に、テニスだけでアメリカに渡ったわけではなく、
就職した職場の関係で、海を渡ったわけだが、
1918年の全米選手権で、ベスト4に進出する快挙を成し遂げた。
これは、2014年準優勝した錦織圭に破られるまで、
同大会での、日本人最高記録であった。
さらに、1920年のアントワープ五輪においては、
男子テニス競技で、シングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得。
1921年のデビスカップにおいても、初出場ながら、
準優勝したメンバーの一人として、活躍するなど、
その功績は、日本テニス史上の中でも、眩いほどの輝きを放っている。
その後、1951年に、日本がデビスカップに復帰した際、
熊谷は、日本代表チームの監督に選ばれた。
チームが勝利することはなかったが、
アメリカのメディアは、30年以上前の熊谷の、
世界での活躍を覚えており、ニューヨーク・タイムズで紹介されるなど、
テニス界のレジェンドとして、記憶に残る存在だった。
メジャーリーグで、イチロー選手が数々の安打記録を作る際、
ジョージ・シスラ―など、かつての名選手の功績が、日の目を浴びたように、
テニス界においても、錦織圭選手の活躍によって、
かつての名プレーヤー達の存在を、知らしめることに繋がるのは、
とてもいいことだと思う。先人の功績を誇りにしたいものだ。
教科書にも掲載された、やわらかなボール!
何の競技でも、ドーピングなどの問題で、
スポーツマンシップや、フェアプレー精神が揺らいできている昨今だが、
かつて。その潔いプレーぶりで欧米で人気を博し、
「シミー」の愛称で親しまれた、日本人テニスプレーヤーがいた。
ウィンブルドンでベスト4、全米選手権でベスト8入りを始め、
数々の大会で活躍した、清水善造である。
単に、スポーツ選手としてだけではなく、
人間として優れた姿勢を示す清水の逸話が、数多く残されている。
最も有名なエピソードは、1920年ウィンブルドン準決勝における、
いわゆる、「やわらかなボール」である。
アメリカのチルデン選手と対戦した際、
転倒したチルデンを見て、彼が起き上って打ち返せるような、
ゆっくりとした球を、送ってあげたという話である。
この話は、戦前・戦後の教科書に掲載され、
美談の典型として、人々の記憶に残ることとなった。
これだけではなく、サーブを放ち主審が判定を迷った際に、
ダブルフォルトを自ら申告した試合がある。
その時は、相手もさるもので、その判定に納得せず、
次の清水のサーブのリターンをわざとネットに当て、自らポイントを捨てた。
これだけの活躍を続けた清水だが、
オリンピック出場を果たすことはできなかった。
清水の活躍を、当時の日本オリンピック委員会はロクに知らず、
オリンピック出場を認めなかったからである。
もし出場を果たしていたら、
日本人最初のメダリストになっていたかもしれないが、
本人はそれに対して、公式的に異を唱えたことはない。
チルデン選手との友情は続き、1923年に起きた、
関東大震災の義援金募集テニス大会が、全米各地で行われた時、
共に参加して、日本復興に大きく貢献している。
現在活躍を続ける日本人選手達も、こうした姿勢を見習い、
国際親善に貢献してもらいたいものだ。
レジェンド・クルム伊達公子の功績!
スキージャンプ界において、葛西紀明選手が、
「レジェンド」として、世界から尊敬の念を集めているように、、
テニス界においても、クルム伊達公子選手が、
多くの選手から称賛を集めている。
4大大会すべてにおいて、ベスト8以上の成績を収め、
時の世界ランキング1位、シュテフィ・グラフとも、互角の戦いを演じ、
世界ランキングで、最高4位を獲得した。
にもかかわらず、キャリア絶頂期の1996年に引退、
その後、2008年に37歳で電撃的に現役復帰し、
今も世界で戦い続けている。
伊達選手のハイライトは、何といっても、1996年フェドカップにおいて、
女王グラフに逆転勝ちしたシーンだろう。
第1セットを、0-5からの大逆転で先取した後、第2セットを取られ、
第3セットを、12-10で制した、伝説の試合だ。
会場が、東京・有明コロシアムだったこともあり、
勝利後は、拍手と歓声が鳴りやまなかったほどである。
その年のウィンブルドン準決勝、
2日間に渡るグラフとの死闘も、忘れ難い一戦だ。
第1セットはグラフが取り、第2セットを伊達が取り返し、
勢いに乗って、第3セットを迎えようとした時、
日没順延になってしまったのだ。
たらればの話は、スポーツでは禁物だが、
もしこのまま、第3セットが始まっていたなら、
伊達の決勝進出も、十分可能性があっただろう。
現役復帰した後も、様々な大会で、最年長勝利記録を塗り替えるなど、
代名詞となっている、ライジングショットと、
試合の流れを読む勝負感は、健在だ。
さすがに、故障をいくつか抱え、
二度目の引退の日は刻一刻と近づいているが、
その日が来るまで、悔いのないよう戦い続けてもらいたいし、
彼女の挑戦には、惜しみない拍手を送りたい。
デビスカップにおける日本の歴史!
デビスカップとは、1900年から、
第一次・第二次世界大戦の時期を除き、毎年行われている、
男子テニスの、国別対抗戦のことだ。
各国は、代表選手4名で構成され、試合は3日間の日程で、
シングルス2試合・ダブルス1試合・シングルス2試合で行い、
先に、3試合を制した方の勝利となる。
現在は、グループの組分けがレベル5まであり、
頂点の、「ワールドグループ」には、16カ国が参加していて、国
際的に注目されている大会の1つである。
ちなみに、女子テニスの国別対抗戦は、「フェドカップ」である。
日本代表が初出場したのは、1921年のこと。
インド、オーストラリア、ニュージーランド連合を、
次々と連破し、いきなり決勝進出を果たしている。
アメリカに敗退するが、準優勝の結果を残した日本は、
その後も、1926年・1927年と、優勝に迫る成績を残している。
まだまだ世界中にテニスが普及していたとは、
言えない時代のこととはいえ、1920年代から1930年代前半にかけては、
日本選手は世界トップレベルの存在だったと言える。
その後、長らく日本人選手の低迷の時代が続いたこともあり、
日本がデビスカップに出場したのは、1981年のルール改正後においては、
1981年・1985年・2012年・2014年だけである。
2014年は、ベスト8に入っており、
2015年も、ワールドグループ残留が確定している。
錦織圭選手を筆頭に、選手層も年々厚くなっており、
今後、新しい歴史を作ってくれる期待感が、高まっている。
日本国内では、デビスカップより、
ウィンブルドンなどが注目されがちだが、
日本人らしい団結力を武器に、今年のデビスカップでは、
昨年のベスト8以上の成績を期待したいところだ。