日本人初のメダリスト、熊谷一弥!







テニス競技に、軟式と硬式があるのは知られたことだが、
明治時代に日本にもたらされたテニスが、国内で先に普及が進んだのは、
用具が比較的手に入れやすかった、軟式競技だった。


硬式転向の機運が高まったのは、大正時代に入ってからで、
理由は、国際交流を目指してのことだった。


1913年、当時、慶應大学テニス部員だった、熊谷一弥は、
日本で初めて硬式テニスに挑戦した、先駆け的存在で、
大学卒業とともに、アメリカに拠点を移した。


純粋に、テニスだけでアメリカに渡ったわけではなく、
就職した職場の関係で、海を渡ったわけだが、
1918年の全米選手権で、ベスト4に進出する快挙を成し遂げた。


これは、2014年準優勝した錦織圭に破られるまで、
同大会での、日本人最高記録であった。


さらに、1920年のアントワープ五輪においては、
男子テニス競技で、シングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得。


1921年のデビスカップにおいても、初出場ながら、
準優勝したメンバーの一人として、活躍するなど、
その功績は、日本テニス史上の中でも、眩いほどの輝きを放っている。


その後、1951年に、日本がデビスカップに復帰した際、
熊谷は、日本代表チームの監督に選ばれた。
チームが勝利することはなかったが、


アメリカのメディアは、30年以上前の熊谷の、
世界での活躍を覚えており、ニューヨーク・タイムズで紹介されるなど、
テニス界のレジェンドとして、記憶に残る存在だった。


メジャーリーグで、イチロー選手が数々の安打記録を作る際、
ジョージ・シスラ―など、かつての名選手の功績が、日の目を浴びたように、


テニス界においても、錦織圭選手の活躍によって、
かつての名プレーヤー達の存在を、知らしめることに繋がるのは、
とてもいいことだと思う。先人の功績を誇りにしたいものだ。




教科書にも掲載された、やわらかなボール!







何の競技でも、ドーピングなどの問題で、
スポーツマンシップや、フェアプレー精神が揺らいできている昨今だが、
かつて。その潔いプレーぶりで欧米で人気を博し、
「シミー」の愛称で親しまれた、日本人テニスプレーヤーがいた。


ウィンブルドンでベスト4、全米選手権でベスト8入りを始め、
数々の大会で活躍した、清水善造である。


単に、スポーツ選手としてだけではなく、
人間として優れた姿勢を示す清水の逸話が、数多く残されている。


最も有名なエピソードは、1920年ウィンブルドン準決勝における、
いわゆる、「やわらかなボール」である。


アメリカのチルデン選手と対戦した際、
転倒したチルデンを見て、彼が起き上って打ち返せるような、
ゆっくりとした球を、送ってあげたという話である。


この話は、戦前・戦後の教科書に掲載され、
美談の典型として、人々の記憶に残ることとなった。


これだけではなく、サーブを放ち主審が判定を迷った際に、
ダブルフォルトを自ら申告した試合がある。


その時は、相手もさるもので、その判定に納得せず、
次の清水のサーブのリターンをわざとネットに当て、自らポイントを捨てた。


これだけの活躍を続けた清水だが、
オリンピック出場を果たすことはできなかった。


清水の活躍を、当時の日本オリンピック委員会はロクに知らず、
オリンピック出場を認めなかったからである。


もし出場を果たしていたら、
日本人最初のメダリストになっていたかもしれないが、
本人はそれに対して、公式的に異を唱えたことはない。


チルデン選手との友情は続き、1923年に起きた、
関東大震災の義援金募集テニス大会が、全米各地で行われた時、
共に参加して、日本復興に大きく貢献している。


現在活躍を続ける日本人選手達も、こうした姿勢を見習い、
国際親善に貢献してもらいたいものだ。




レジェンド・クルム伊達公子の功績!







スキージャンプ界において、葛西紀明選手が、
「レジェンド」として、世界から尊敬の念を集めているように、、
テニス界においても、クルム伊達公子選手が、
多くの選手から称賛を集めている。


4大大会すべてにおいて、ベスト8以上の成績を収め、
時の世界ランキング1位、シュテフィ・グラフとも、互角の戦いを演じ、
世界ランキングで、最高4位を獲得した。


にもかかわらず、キャリア絶頂期の1996年に引退、
その後、2008年に37歳で電撃的に現役復帰し、
今も世界で戦い続けている。


伊達選手のハイライトは、何といっても、1996年フェドカップにおいて、
女王グラフに逆転勝ちしたシーンだろう。


第1セットを、0-5からの大逆転で先取した後、第2セットを取られ、
第3セットを、12-10で制した、伝説の試合だ。


会場が、東京・有明コロシアムだったこともあり、
勝利後は、拍手と歓声が鳴りやまなかったほどである。


その年のウィンブルドン準決勝、
2日間に渡るグラフとの死闘も、忘れ難い一戦だ。


第1セットはグラフが取り、第2セットを伊達が取り返し、
勢いに乗って、第3セットを迎えようとした時、
日没順延になってしまったのだ。


たらればの話は、スポーツでは禁物だが、
もしこのまま、第3セットが始まっていたなら、
伊達の決勝進出も、十分可能性があっただろう。


現役復帰した後も、様々な大会で、最年長勝利記録を塗り替えるなど、
代名詞となっている、ライジングショットと、
試合の流れを読む勝負感は、健在だ。


さすがに、故障をいくつか抱え、
二度目の引退の日は刻一刻と近づいているが、
その日が来るまで、悔いのないよう戦い続けてもらいたいし、
彼女の挑戦には、惜しみない拍手を送りたい。




デビスカップにおける日本の歴史!







デビスカップとは、1900年から、
第一次・第二次世界大戦の時期を除き、毎年行われている、
男子テニスの、国別対抗戦のことだ。


各国は、代表選手4名で構成され、試合は3日間の日程で、
シングルス2試合・ダブルス1試合・シングルス2試合で行い、
先に、3試合を制した方の勝利となる。


現在は、グループの組分けがレベル5まであり、
頂点の、「ワールドグループ」には、16カ国が参加していて、国
際的に注目されている大会の1つである。


ちなみに、女子テニスの国別対抗戦は、「フェドカップ」である。


日本代表が初出場したのは、1921年のこと。


インド、オーストラリア、ニュージーランド連合を、
次々と連破し、いきなり決勝進出を果たしている。


アメリカに敗退するが、準優勝の結果を残した日本は、
その後も、1926年・1927年と、優勝に迫る成績を残している。


まだまだ世界中にテニスが普及していたとは、
言えない時代のこととはいえ、1920年代から1930年代前半にかけては、
日本選手は世界トップレベルの存在だったと言える。


その後、長らく日本人選手の低迷の時代が続いたこともあり、
日本がデビスカップに出場したのは、1981年のルール改正後においては、
1981年・1985年・2012年・2014年だけである。


2014年は、ベスト8に入っており、
2015年も、ワールドグループ残留が確定している。


錦織圭選手を筆頭に、選手層も年々厚くなっており、
今後、新しい歴史を作ってくれる期待感が、高まっている。


日本国内では、デビスカップより、
ウィンブルドンなどが注目されがちだが、
日本人らしい団結力を武器に、今年のデビスカップでは、
昨年のベスト8以上の成績を期待したいところだ。